三球見逃し

2008 年 7 月 31 日

投資家は、悪いボールに手を出しすぎるので、成績が悪くなる。
投資の場合、ストライクゾーンギリギリに決まるボールを三球
見逃してもアウトにはならない。
実績を上げるためには、絶好球がくるまで待たなくてはならない。

リチャード・デニス

2008 年 6 月 14 日

リチャード・デニス(Richard J. Dennis)はアメリカの有名な投資家。400ドルを数十億ドルにした。パートナーに元数学者ウィリアム・エックハートがいる。
パートナーであるエックハートと『優秀なトレーダーを育成できるか』という議論、賭けをする。そして1983年と1984年、2度に亘り『ウォール・ストリート・ジャーナル』に広告を出し、教えられた投資手法は絶対に口外禁止という条件の元、トレーダーを募集、育成した。 最終的には「タートルズ Turtle Traders」は23人育成され、成功をおさめているため『優秀なトレーダーを育成できる』という結論にいたる。 タートルズの名前の由来はデニスが東南アジアに旅行に行ったときに見た亀の養殖から、トレーダーを養殖する事とかけた事から。

ジム・ロジャーズ

2008 年 6 月 14 日

ジム・ロジャース(Jim Rogers、1942年10月19日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州出身の投資家。ジョージ・ソロスの元パートナー。初めての仕事は5才のときのピーナッツ売りだった。

Arnhold & S.Bleichroeder勤務時にジョージ・ソロスに出会ったことがきっかけで、1973年、ソロスとともにクォンタム・ファンドを設立する。ファンドは10年の間に3365%のリターンを得た(ちなみにこの間、ダウ工業指数は20%上昇したにすぎなかった)。この成功を受け、1980年に仕事を引退した。

1998年、Rogers International Commodity index(RICI)を設立。このファンドは、1998年8月1日以来326%の上昇を達成している(2007年12月時点)。2005年に、書籍Hot Commoditiesを著し、従来の投資における考え方とは逆に、商品投資は最良の投資のひとつであることを示した。 RICIのリターンは、1998年7月31日-2004年7月30日の6年間で次のようになっている(株式、債券、不動産と比較)。
・Rogers International Commodities Index (RICI) +167.441%
・S&P 500 Index -1.69%
・Lehman Long Treasury Bond Index +49.36%
・Vanguard REIT Index +28.04%

経歴
・1964年 - エール大学を卒業(学士)。夏休みのアルバイトにウォール街で働いたことで投資に興味を持つ。ウォール街で初めての仕事を投資銀行Dominick & Dominickで得る。当時、ウォール街については何も知らず、株式と債権の違いについてさえ知らなかったが、仕事にはすぐに熱中した。 この後、オックスフォード大学へ留学。奨学金で株式投資を行う。
・1966年 - オックスフォード大学を卒業し(修士)帰国。数年間アメリカ陸軍に所属する。
・1968年 - 見習いアナリストとしてウォール街で働き始める。
・1970年 - 投資銀行Arnhold & S.Bleichroederに入社。
・1980年 - 仕事を引退。その後、コロンビア大学ビジネススクールの客員教授になる。
・1989年 - WCBSの"The Dreyfus Roundtable"で司会を務める。
・1990年 - FNNの"The Profit Motive with Jim Rogers"で司会を務める。
・2002年 - 毎週土曜日放送のFOX News Cavuto on Businessでレギュラーゲストになる。

ウォーレン・バフェット

2008 年 6 月 14 日

世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの最高経営責任者である。
資産は主にバークシャー・ハサウェイを通じて形成されており、2006年度は世界第2位、約460億ドル(5兆3800億円)であった。
バフェットは幼い時から聡明で、様々なことで商売をしていた。例えば、祖父からコーラ6本を25セントで購入し、それを1本5セントで売ったりワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞売りなど多岐に渡っていた。

1930年:(0歳)
・ネブラスカ州オマハで証券業を営み、一時は国会議員だったハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に生まれた。

1941年: (11歳)
・初めての株式を購入する。購入したのはシティ・サービスの優先株を3 株、価格は1株38ドルだった。この株式は、バフェットが購入後1株27ドルまで下落する。しかし、後に上昇し1株40ドルになったところで売却する。売却後もシティ・サービス株は長期的に上昇し続け200ドルになった。この経験からバフェットは「優良企業の株式は長期保有」という投資哲学を学んだと後に述懐している。

1943年: (13歳)
・自転車を仕事の経費として控除し初めての所得税を申告。
・中学では飛び級をしたが、一つ上の友達とうまくなじめなかった。また成績は芳しくなかったが、新聞配達の方は絶好調であった。
・父親が下院議員に当選したのでワシントンD.C.に引っ越す。
・成績が芳しくなかったことについて母親は「一時的なものだろうと思っていました」と発言している。確かにこの時期を除けば成績は優秀である。
・新しい生活になじめず、「息ができないほど、苦しかった。夜も寝れなかった」と当時を振り返っているが、両親には心配をかけまいとして「大丈夫」と振舞った。それでもやはり、つらい生活に耐えられず、オマハの祖父の家からオマハの中学校に通うこととなった。

1944年: (14歳)
・1,200ドルの貯金を使われていなかった農地40エーカー(0.2 km2)に投資。

1947年: (17歳)
・高校3年のとき、友人と中古のピンボール1台を25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始める。この商売は順調にいき、数ヶ月で3台のピンボールを置くことが出来るようになる。バフェットは、最初の週の集金で5ドルあったときには「いける」と思ったという。最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出した。その後、この事業を退役軍人に1200ドルで売却する。
・高校のときから投資家としての才能は開花していたようである。教師が皆ある株式を保有していた。そこでバフェットは皆が持っているからという理由で空売りを仕掛けた。これについて教師は「ウォーレンには株の知識があるんだなあ」と語った。

1947年から1948年まで:(17歳)から(18歳)
・ペンシルバニア大学ウォートン校ファイナンス学科に在学。
・学ぶことがもう何もないという理由で中退。

1949年: (19歳)
・アメリカ最大手百貨店j.c.ペニーで仕事を提供されるが断る。
・ネブラスカ大学オマハ校に編入。
・夏休みに最後の3単位を取得し、大学を3年で卒業。
・貯金は9,800ドル。

1950年:(20歳)
・大学院への進学を決意する。ハーバード大学ビジネス・スクールに入学許可を申請するが、断られた。書店でたまたま見つけた「賢明なる投資家」という本を見つけて感銘を受ける。この時のことを後にバフェットはこのように述懐している。「文字通り、天から光が射してきたような気がしました」 この著者が投資理論の先駆者であり、また著名な証券アナリストでもあったベンジャミン・グレアムである。グレアムが、コロンビア大学で教授の職についていると知ったことから、1951年にバフェットは同大学に進学した。大学在学中にバフェットはグレアムに学ぶこととなる。またコロンビア大学にはデイビッド・ドッドという著名なアナリストもいた。

1951年: (21歳)
・ベンジャミン・グレアムがGEICO保険の重役であることを知り、電車に乗ってワシントンD.C.のGEICO本社へ向かったバフェットは、中に入れてくれるまでドアを叩き続けた。そこで、当時副社長、後の友人であり、影響を受けるLorimer Davidsonに会う [2]
・大学院を卒業。ウォール街で働こうとするが父とグレアムに反対される。バフェットはグレアムの下でただでもいいから働きたいと懇願するが、ユダヤ人のための雇用を確保しておきたいというグレアムの事情により断られた。グレアムはユダヤ人で、当時はユダヤ人の就職が困難という社会的な事情がその背景にはあった。
・故郷オマハに帰り、スーザン・トンプソンとデートをするようになる。そのころTexacoガソリンスタンドを副投資として購入。しかし、望んだほどの成果はあげられなかった。一方、株式ブローカーとして父の証券会社で働く。この間に、デール・カーネギー演説コースを選択。バフェット曰く、「人前で話すのが苦手だったから」。「人前で話している時に足が震えないようにするためではなく、足が震えていても話せるようにするため」。学んだ知識を使いネブラスカ大学夜間クラスで"投資原理"を教える。これにバフェットは十分な自信を持っていた。受講生の平均年齢は彼の2倍以上であった。

1952年: (22歳)
・スーザン・トンプソンと結婚。婚約時には資産の6%の価値の婚約指輪を贈る。このことをビル・ゲイツがバークシャー・ハサウェイ子会社の世界最大規模の宝石店に指輪を買いに来たときに例に用いて諭している。当時のビル・ゲイツの資産6%は5億ドル相当にあたる。
・一月65ドルでアパートを貸す。
・初めての子供、長女スージーをもうける。

1954年: (24歳)
・ベンジャミン・グレアムより電話でパートナーシップでの仕事の誘いがあり、資産運用会社グレアム・ニューマン社に証券アナリストとして入社する。(初任給は年間12,000ドル)幼い頃の娘スーザンは父の職業名は知っていたが、実際にどんな仕事をしているかは知らなかった。証券アナリスト(英語ではセキュリティー・アナリスト)と聞いた娘の友達はベルの点検をする仕事だと勘違いしていた。ここではウォルター・シュロスと共に働く。
・2人目の子供で長男ハワード・グレアム・バフェットをもうける。

1956年: (26歳)
・ベンジャミン・グレアムが引退し、グレアム・アンド・ニューマン・カンパニーは解散。グレアムは病気療養中に「ウォーレン(バフェットのファーストネーム)は良くやってくれた」と話しており、自著「賢明なる投資家」の改訂をバフェットに依頼する。しかし、その出来が気に入らなかったためか、退院して自分で改訂作業を始める。バフェットはこのことについて「インフレのところなど2箇所追加しただけで、基本的な部分は変えるつもりはありませんでした。ベン(グレアムの愛称)の表現のほうが優れていましたし」と語っている。
・大学を卒業して以来の貯金は9,800ドルから140,000ドル以上になっていた。
・故郷オマハに帰り、合計105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立。自身は100ドルだけ出資した。
・この後、年内に2つのパートナーシップをつくり、パートナーシップは合計で3つになる。

1957年: (27歳)
・この年、さらに2つのパートナーシップを追加でつくり、前年つくったパートナーシップと合わせると5つとなる。バフェットはパートナーシップの運営を自宅で行っていた。
・妻のスーザンが第三子(次男ピーター)を身ごもっていたので、ファーナム通りにある漆喰作りで5つの寝室を備えた家を31,500ドルで購入。この家にバフェットは現在も住んでいる。

1958年: (28歳)
・パートナーシップの資産を倍にする。

1959年: (29歳)
・現在のバークシャー・ハサウェイの副会長であるチャーリー・マンガーに出会う。彼は会社の成功の要になる。2人はすぐに意気投合した。この時にバフェットは「法律も趣味としてはいいが、もっとおもしろいことがある」とマンガーに語った。

1960年: (30歳)
・パートナーである1人の医師に10,000ドルを投資する気がある10人の医師を見つけてきてほしいと頼み、11人を紹介してもらう。この中には現在まで投資している家族(本人は死去したが、遺族が相続した)があり、当時投資した1万ドルは現在では5億ドル程度になっている。

1961年: (31歳)
・パートナーシップの資産が数百万ドルを突破する。このときに初めて100万ドル規模の投資をする。投資先は風車の製造会社であった。

1962年: (32歳)
・資金集めのために妻と数週間ニューヨークへ出かけ、古い友人から資金を集める。滞在中に数十万ドルを集める。
・パートナーシップの資産が720万ドルになる。
・シャツなどの織物製造会社バークシャー・ハサウェイが1株あたり8ドル未満で売られていることに気づき、同社株を買い始める。最終的にはパートナーシップを通じて、全株式の49%まで買い進める。
・多数あったファンドをバフェット・パートナーシップにまとめる。バフェットとスーザンはそれぞれ100万ドル以上の資産を保有していた。
・運営拠点を「機能的で華美でない」キューイット・プラザ(地元の名士の名にちなむ)に移す。現在も拠点はここにある。
・最小投資規模を25,000ドルから100,000ドルに変更。
・マンガーに風車製造会社デンプスターに投資すべきか相談し、マンガーにハリー・ボトルのほうがいいと言われる。バフェットはこの助言に従い、ハリー・ボトルに投資、一時解雇、コスト削減等の経営改善策を会社に実現させ、結果大きな利益を出す。

1963年:(33歳)
・バークシャーの筆頭株主になる。
・デンプスターを購入時の3倍の株価で売却。ほとんど価値のない企業で構成したポートフォリオは200万ドル以上の価値を持っていた。

1964年:(34歳)
・アメリカン・エキスプレスの株価がスキャンダル(子会社が取引先の倒産のあおりを受けて倒産しそうな時に、法的義務もないのに資金を融通しようとした)で暴落。世界中が同社株を売っているときに、バフェットは猛然と買い始める。これについて「ブランドは傷ついたが、財務諸表に変化はなかったため」と答えている。

1965年: (35歳)
・取締役会にてバークシャーの経営権を取得。新社長にケン・チェイスを指名。
・父ハワード・バフェット死去。遺産は一切なし。
・ウォルト・ディズニーに出会い、ウォルト・ディズニー株を買い始める。購入額は400万ドルで1株38セント。当時の時価総額の5%にあたる。しかし、48セントになったときに売却。後に買い戻すこととなる。このことについて、売却は失敗だと認めており、「良く帰ってきたね」といった。
・アメリカン・エキスプレスの株価が購入時の2倍になる。

1966年: (36歳)
・純資産が6,849,936ドルに達する。

1967年: (37歳)
・バークシャー社が初めての配当(10セント)を出す。
・バーゲン価格の株はないとパートナーに説明する。
・パートナーシップの資産が6500万ドルになる。
・一時的に株式投資から離れて他の趣味をしようと考える。

1969年: (39歳)
・この年、バフェットはパートナーシップを解散し、パートナーに資産を清算。この時、パートナーは現金とバークシャー株の2つから好きなほうを選ぶことができた。

1970年: (40歳)
・バークシャー・ハサウェイ会長として、現在では有名となっている株主への年次報告書を執筆し始める。

1971年: (41歳)

・妻の要望でラグーナビーチに夏季滞在用の家を150,000ドルで購入する。

1973年: (43歳)
・バークシャー社が、ワシントン・ポスト株を買い始める。バフェットは、ワシントン・ポストとその旗艦紙を支配しているキャサリン・グレアムと親友になり、取締役となる。
・バークシャー株が下落し始める。バフェットの指示にて、バークシャー社は資金の借り入れを行う。

1974年: (44歳)
・バークシャー株の下落のためにバフェットの純資産が半減する。
・証券取引委員会(SEC)によりバフェットとバークシャーの合併について調査が行われる。しかし、疑わしいことはなかった。

1977年: (47歳)
・3250万ドルでバッファロー・イブニング・ニュースを買収。このことで、反トラスト法にて訴訟を起こされる。
・妻スーザンがバフェットのもとを去る。しかし、公式には離婚してない。妻についてバフェットは以下のように話している。「彼女は放浪癖があるというか、自由人なんですよ」

1978年: (48歳)
・妻スージーからアストリッド・メンクスという女性を紹介される。彼女はバフェットと暮らすことになる。

1979年: (49歳)
・バークシャーがABC株を買い始める。1株当たりの買値は290ドルであった。バフェットの純資産が1億4000万ドルに近づく。しかしながら、年$50,000を給与として貰い生活する、というスタイルであった。
・バークシャー株の株価が年初775ドルであったのが、年末には1,310ドルまで上昇した。バフェットの純資産が6億2000万ドルに達する。初めてフォーブス誌に名前が載る。

1981年: (51歳)
・バフェットとマンガーは慈善寄付計画を策定して、利益の一部をこの計画に寄付することを許諾するように株主に求める。

1983年: (53歳)
・6000万ドルでネブラスカ・ファーニチュア・マートを買収。バフェットは何気なく店を訪れ、この企業の女性オーナーに「おばさん、店を売る気はないかい?」と尋ねた。そうすると、「あるよ」と答えたので「いくら?」と尋ねた。そうすると「6000万ドル」と返答がきた。バフェットは事務所に戻り 6000万ドルの小切手をすぐに作り戻ってきた。あとで、正確に資産調査をした時に8400万ドルが正確な資産だと判明したが、「先に言った事を撤回できない」との女性オーナーの判断で買収は了承された。実のところ、バフェットはオーナーの息子と事前に交渉しており、売りたいことも知っていたようである。この年、株式のポートフォリオは13億ドル程度の価値と評価される。

1985年:(55歳)
・バークシャー社の織物業の再建を断念。優秀な経営陣と潤沢な資本を注ぎ込んだが、当時すでに斜陽産業であった織物業を再建することはできなかった。
・3億1500万ドルで世界書籍百科事典などを製造しているScott & Fetzerを買収。ちなみにチャーリー・マンガーはこの百科事典がお気に入りで、「人間の英知をこんなにもコンパクトで使いやすくまとめるとはたいしたものだ」と述べている。
・ABCとキャピタル・シティーズの合併の成功を助ける。
・連邦裁判所からキャピタル・シティーズとKay Graham’s Washington Postの両方で取締役であることを認められなかったため、ワシントン・ポストの取締役を辞任する。

1986年:(56歳)
・バークシャーの株価が3,000ドルに達する。

1987年:(57歳)
・株式市場の大暴落の余波により、バークシャーの株価は4,230ドルから3,170ドルに下落する(25%の減少)。

1988年: (58歳)
・コカ・コーラ株を買い始める。最終的に発行済み株式の7%を10.2億ドル相当で買った。この投資は後に最も成功した投資となる。これは、現在も保有中。

1989年: (59歳)
・バークシャーの株価は4,800ドルから8,000ドル以上に上昇。バフェットの純資産はこの上昇に伴い38億ドルになる。

1996年: (66歳)
・ニューヨークのCardozo Law Schoolに参加してThe Essays of Warren Buffettを編集、発行することとなる。

1997年: (67歳)
・1オンス6ドルで13億オンスの銀を購入。これは2006年に売却した。

2002年: (72歳)
・110億ドル相当でドル以外の通貨を購入。この投資は2006年4月までに、計20億ドル以上の利益を出した。
・6月、440億ドルあった全資産の80%、370億ドルを5つの財団に毎年株式の形で寄付を行うと発表。2006年6月より開始。最大の寄付先は、ビル&メリンダ・ゲイツ財団である。

2003年: (73歳)
・通貨の運用益が6億ドルを超える。

ジョージ・ソロス

2008 年 6 月 14 日

ソロス・ファンド・マネージメントの設立者である。1970年、彼はジム・ロジャーズとともにソロスファンド(後のクォンタム・ファンド)を設立した。ファンドは10年間で3,365%のリターンを出してソロスの富の大部分を形成した。

・1947年単身イギリスに渡る。
・1949年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) に入学する。大学卒業後はイングランド北部のブラックプールで記念品や土産物や宝飾品などを販売するセールスマンとなる。
・1953年ロンドンのシンガー&フリードランダー社に入社。
・1956年9月ニューヨークのウォール街に赴く。
・1961年から1966年にかけて、自分の学位論文「認識の重荷」を完成させることに集中する。
・1969年ジム・ロジャーズと共にソロスファンド(後のクォンタム・ファンド)を設立。
・1980年ジム・ロジャーズと訣別。
・1981年クォンタム・ファンドは創設以来はじめての損失を出す。ファンドは4億ドルから2億ドルに縮小、運用実績は22%のマイナスとなる。
・1992年イギリス政府の為替介入に対抗してイギリスの通貨ポンドへ空売りを行い、15億ドルの利益を得る。

通貨投機
1992年9月16日のポンド危機で、100億ドル以上のポンドの空売りを行なったことで、ソロスはすぐ名を挙げた。イングランド銀行が金利を欧州為替相場メカニズム(ERM) を採用している他の国と比較して引きあげること、またはその国の通貨の変動相場の金利を引き上げることに乗り気でなかったことから、ソロスは利益を得た。最終的にイングランド銀行は欧州為替相場メカニズムから通貨を回収することを強いられた。ポンドは価値を下げ、この過程でソロスは20億ドルと見積もられる利益を出した。ソロスは、イングランド銀行をつぶした男と呼ばれた。 タイムズ紙にて1992年10月26日月曜日:ソロスは以下のように答えている。「我々のブラックマンデーまでのトータルポジションはほぼ100億ドルの価値があった」「しかし、我々はそれ以上に売ることを決断した」。事実、Norman Lamontが英国通貨スターリングを買い支えるため、150億ドルを借りることを価値切り下げの直前に行ったとき、我々はどのくらい空売りすることになるかということを暗に示していたので、楽しんでいた。

1997年、アジア通貨危機の間、マレーシア首相マハティールはソロスがマレーシア通貨リンギットを下落させたことを戦犯と非難した。

ラリー・ウィリアムズ

2008 年 6 月 14 日

ラリー・ウィリアムズ(Larry Williams)はアメリカの有名な投資家・投機家。ウィリアムズ%R(W%R)などの数多くの投資手法を発案した。1987年のロビンスカップで11,376%(113.76倍)の驚異的リターンを出し優勝し世界にその名を驚かせた、未だにこの記録は破られていない。数多くの投資手法を持っており、セミナーに参加した人だけに伝授する方法もある。タートルズのラッセル・サンズとは親交がある。

ウィリアムズ%R
MACDやRSIと同じくyahooなどの無料サイトでも使用できるほど知名度が高い指標。『=((過去n日間の最高値-当日の終値)/(過去n日間の最高値-過去n日間の最安値))*100』で算出する。

ヴィクター・ニーダーホッファー

2008 年 6 月 14 日

ハーバード大学で学士号を取得、シカゴ大学で博士号を取得。1967年から1972年までの5年間、カリフォルニア大学バークレー校にて教授を務めた。1965年、学生であった彼は友人のフランク・クロスと共に、非上場企業を買収し上場企業に売却する目的での投資銀行を共同設立した。

1980年には投資ファンドを設立しパフォーマンス的にも成功を収めると、それがジョージ・ソロスの目に留まり、ソロスのファンドのパートナーとして招かれた。ビクターは1982年から1990年までソロスのファンドに在籍したが、ソロスはビクターのことを「相場で勝ち続けながらも(ソロスの元を)自ら去った、唯一のファンドマネージャー」と高く評価しており、自分の息子を彼の元でトレーディングを学ばせた程である。

その後1996年までビクターは高いパフォーマンスを続け、世界一の投資家と称えられたが、1997年のアジア通貨危機で大敗し、彼のファンドも破綻に追い込まれた。このときの彼は、同年10月27日の株価の大暴落が大衆を巻き込んだヒステリックなもので翌日には大きく反発すると予想し、買いポジションを持った。しかし取引額が大きかったので5000万ドルの追証が発生。その金額を集めることが出来なかったために、翌朝の寄り付きには多額の含み損が強制決済された。そしてその1時間後の午前10時には、ビクターの読みどおり株価は大きく反発、暴騰をはじめた。

破産したビクターは翌1998年、私財を売却し、自宅を担保にして手に入れた資金を元手に再度ファンドを設立。その後は年率40%以上のパフォーマンスを残し続け、見事復活を果たしている。